湖南の韶山:開国の指導者の毛沢東氏の忠義心
世界関公文化網のニュース:湖南省湘潭市韶山村は、開国の指導者の毛沢東氏の故郷であり、国内外の億万人の人々があこがれる場所である。
湖南の韶山にある開国の指導者の毛沢東氏の旧居
韶山村は後漢末期に古代荊州の地域に属し、ここには多くの関羽の物語が伝わっている。毛沢東氏の旧居の前に韶河があり、韶河の上に関羽橋があり、橋のたもとから遠くない山すその密林の中に関羽古寺がある。
1904年の秋、11歳の毛沢東氏は父に関羽橋のたもとの塾に送られ、毛詠生氏を師として拝んだ。当時を思えば、少年の毛沢東氏はかばんを背負い、毎日ぴょんぴょん跳ねて関羽橋を渡り、遠くない関羽廟を見上げていた。関羽の「忠実・勇敢・頂点に達した義理」という英雄の豪気は、とっくに少年の毛沢東氏の血脈に溶け込んでいた。
毛沢東氏の旧居でとっておきの前国家主席毛沢東氏の韶山帰省の写真
少年の毛沢東氏は『三国誌演義』を手元に離れたくないほど気に入り、よく同級生達に「桃園での劉備・関羽・張飛の義兄弟の契り」の話をしたり、「関羽が関門を破って将軍を倒した」の話をしたりして、小さい頃から同級生達から「三国物語の大王」と呼ばれていた。ある時、先生は壇上で『増広賢文』を講じて、毛沢東氏は『増広賢文』で『三国誌演義』をかばって、こっそり夢中になって読んでいたが、先生が目の前に立っても、まだ気づいていなかった。
韶山村の韶河の関羽橋は当時、毛沢東氏の父が地元の村人を率いて架け直したと伝えられている
1910年の秋、17歳の毛沢東氏は県都の東山学堂に入学した。家を出た日、毛沢東氏は朝早く起き、いくつかの身の回りの服を小包にし、天秤棒の片方に縛り、また『三国誌演義』と『水滸伝』を丁寧に包み、しっかりと箱の中に入れ、天秤棒のもう片方に縛り、韶山から出発した。
長沙第一師範学校で勉強していた時、青年の毛沢東氏は「桃園での劉備・関羽・張飛の義兄弟の契り」にならって、同級生の蕭子昇氏・蔡氏・森氏と友達になり、「三豪傑」と呼ばれたことがある。青年の毛沢東氏は心の中で関羽のイメージが崇高である。
韶山村の関羽橋のたもとにある関羽廟
毛沢東氏の手書きの『三国誌演義』の冒頭
中華人民共和国が成立した後も、毛沢東氏は『三国誌演義』を手元に離れたくないほど気に入り、よく「関羽が敗北して麦城に逃げ込んだ」ことを例にし、指導幹部に、特に高級幹部に謙虚で慎重であることを注意していた。
1954年、毛沢東氏は中国を訪問したインドの元首相のネルー氏と会見し、ネルー氏はアメリカをはばかり、中国と国交を樹立する勇気がなかった。ネルー氏は毛沢東氏に「アメリカ人はすごいですよ。彼らは原子爆弾を持っていますよ。」と言った。毛沢東氏は「原子爆弾は何が怖いですか。私達には関羽殿の太刀がついていますよ。」と微笑んで言った。
1959年の夏、毛沢東氏は久しぶりに故郷に戻り、韶河の畔を行ったり来たりしていた。村人達は主席に何を探しているのかと尋ねたが、主席は「関帝廟」と言った。毛沢東氏は添乗員に「私は小さい頃病気になったことがあります。その時、母は私を関帝廟に連れて行って、線香を上げて叩頭して、線香の灰まで食べさせてくれて、そして病気が治りました。当時は医者も薬品も足りなくて、病状を好転させるためには、主に精神的な支えに頼っていました。」と語った。
静かに本を読でいた毛沢東氏
有名な画家の傅抱石の作品「関羽橋」
晩年、毛沢東氏は目が悪くなり、読書は明らかに減少したが、彼の枕の下には『三国誌演義』のセットが押されていた。1976年、毛沢東氏は最後のしばらくの間、まだ台湾を心配していたが、よく周りのスタッフに「『三国誌演義』の冒頭は天下の大勢は、分かれば必ず合い、合わせては必ず分けるのです。国共両党は、合わせれば二利、分かれば二傷ですよ。」と言った。毛沢東氏の指導者としての生涯を見渡すと、彼の忠義心は深く感動させられた。
関羽橋のたもとに朱正明氏の作品『世界各地と中華の関帝が世界の屋根に集まる』を展示していた。右から:湖南長沙関羽会会長の徐柏林氏、湖北省委員会統戦部の元海外センター主任の朱正明氏、山西関羽故里関帝文化交流センター主任の張楓氏、上海関羽義学館館長の彭允好氏、湖南省長沙関羽会秘書長の顔尼丹氏、新疆中鉄21局プロジェクトマネージャーの崔金秋氏、河南省洛陽関林管理処処長の李春敏氏
もう一度韶山を振り返ってみましょう。前世紀の60年代、有名な画家の傅抱石氏は韶山に行ってスケッチし、実地調査し、国画の「韶山関羽橋」を創作した。作品は少年の毛沢東氏が勉強していた関羽橋を背景にし、俯瞰した構図を採用し、雄大で神秘的な勢いをつけ、気迫が重厚である。2021年3月31日、華芸国際の春オークション、傅抱石氏の『韶山関羽橋』は4700万元余りで成約し、オークション全体のハイライトとなった。
2021年7月5日、関羽文化シンポジウムに参加した6省・市のゲストは韶山を訪れた。景勝地に入って遠くないところで、みんなは驚いて韶河の上の関羽橋を発見した。車が止まると、みんなは橋のたもとに取り囲んで、関羽橋のレンガや石を愛情深く見つめて、開国の指導者が関羽橋の上を通った当時の光景をはるかに思っていた。橋のたもとの田舎道で、朱正明氏は『世界各地と中華の関帝が世界の屋根に集まる』という作品を広げ、6省・市の友人が一緒に取り囲み、貴重な写真を撮影した。
この『世界各地と中華の関帝が世界の屋根に集まる』という作品は、朱正明氏が39年で7大陸の50カ国以上を渡り歩き、関帝の文化風情を訪ねて創作したものである。画面上では、香港・マカオ・台湾・世界各地の関羽の像がチョモランマ峰に喜んで集まっている。チョモランマ峰は神聖で、純潔で、気勢がみなぎって、高くそびえている。関羽は表情がそれぞれ異なり、威風堂々で縁起がいい。
朱正明氏は長沙関羽会会長の徐柏林氏に「関羽橋のたもとにある関羽古寺は、年代が古いので、もう残っていません。現在の関羽廟は小さすぎて、それに、粗末です。開国の指導者が関羽の忠義精神への深い愛情を慰めるために、長沙関羽会が各界の人々と韶山の景勝地に連絡して、関羽橋のたもとにある関羽廟を再建することを提案します。」と言った。(文章:朱正明 写真:俊奕、湘仁)
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