百年の谜:1665年ヨーロッパの古地図、中国の版図に武聖の関公が屹立
《世界関公文書化網》のニュース:16年前、名作家の李存葆将軍は紀実文学『東方の神』を発表し、その一部の文字が朱正明の注意を引き起こした。「早くも1665年に、オーストリア帝国ウィーンで出版された世界各国の地図の中で、我が国の版図に、民族精神の代表である人物が立っている。それは関公である。当時の世界において、私たちの武聖関公の影响影響がすでに広がっていることが十分に覗える。」
朱正明は考えた:この地図は何者によるものであろうか。この外国人製図芸術家はどのように万里も離れている東方の華夏関雲長を知ったのか。地図に書かれている関公はどんなイメージだろうか。どこでこの地図を見つけられるか......
長い間、朱正明は国内外の友達に頼んで捜していたが、この地図を見つけることができなかった。1665年のヨーロッパの古地図は、万里を離れている西洋にある百年の謎になったようだ。
まさに「その環境においてはその場所にふさわしい人が造られる」ように、ヨーロッパの絵画師が描いた関公は、ヨーロッパ血統の殿さまのようだ。周倉将軍はヨーロッパの武士により似ている。
『アトラス・マイヨール1665』Atlas Maior of 1665表紙
岳麓書院の胡劼辰教授が北京で関帝文化について述べている
2018年の夏、中国人民大学の主催で、第一回国際関公文化フォーラムが北京で開催され、50人余りのゲストはアメリカ、フランス、ドイツ、日本及び中国の海峡両岸から集まって来た。朱正明は「カメラマンの目に映る世界の関帝文化」を題に演説を行い、1665年のウィーンの古地図をわざわざ取り上げ、その地図に描かれていた関公について言及し、どの学者がどの国の図書館で驚くほどの発見を見つけることを期待している。
最近、朱正明は岳麓書院の胡劼辰教授から情報を受け取り、10年以上探し続けていたウィーン古地図、そして古地図に描かれている関公肖像画がある。関公は赤い御掛けを着て、赤い帽子をかぶり、左手は美長髯を撫で、右手は剣を握り、威風堂々としている姿、後ろの周倉は、全身に緑の御掛けを身につけ、青龍偃月刀を握って侍立している。二人の華夏英雄は中国四川の地図に描かれている。これは、胡教授がヨーロッパの多くの図書館を検索し発見したものである。
数日も経たないうちに、朱正明は胡教授から送ってきた『Atlas Maior of 1665』を受け取った。この分厚い古地図ブックは、512ページもあり、ほぼ2寸の厚さ、10斤ほどの重さである。紹介によると、オランダの東インド会社の公式水文従事者であるウィリアム・ブラウと(Willam Blaeu)息子のジョアン・ブラウ(Joan Blaeu)によって描かれた地図で、収蔵価値が非常高く、Joan Blaeuの『Atlas Maiorof1665』原本は、アメリカ、ドイツ、オーストリアの国家図書館に一冊ずつあるだけ、その一冊の価格は65万ポンド以上に達している。
1665年1月1日にウィーンで出版されたこのラテン語原版に収録されている11巻の594枚の地図は、北極、アジア、ヨーロッパ、アメリカを横断し、様々な国の風土や人情を巧みに描いている。中国の省の境界線と都市名の多くがはっきりと見える。中国地図には北京、山東、四川、江西、福建、雲南などの省市が含まれている。地図は生き生きとした図案で各地の特色を示し、雲南の地図に象があり、北京の地図に朝廷の役人が西洋の使者と交流する場面があり、四川の地図には関公と大刀を担ぐ周倉が現れている。古地図から、当時著者が住む世界第一航海強国のオランダは既に豊富な海外地理史料を把握していることが分かった。
ドイツのタッシェン(Taschen)出版社は、ウィーン国立図書館のコピーを用いて、近年この経典的地図を再版し、英語、フランス語、ドイツ語の3種類の言語に翻訳されている。
『アトラス・マイヨール』作者、オランダ学者のジョアン・ブラウJoan Blaeu
アフリカ地図に書かれたイラスト
アトラスは十七世紀におけるヨーロッパの航海成果を十分に示している
地中海の北岸のバルセロナで、文化学者の朱正明氏はスペインの少女に中国の関公の物話を語っている
ヨーロッパ人が描いた中国地図は、なぜ関公像を樹立するだろうか。文化学者の朱正明氏によると、我々はまず歴史的な視点から分析しなければならないと言う。明朝の第十三代皇帝である朱翊鈞氏が20歳の時、関公を「協天大帝」に封じる勅撰を下した。万暦四十二年(西暦1614年)、関公を「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」に封じ、その時はジョアン・ブラウJoan Blaeuがアトラス・マイヨールを描く時期より、ちょうど半世紀早い。
清王朝の順治皇帝は、関公を非常に崇拝し、西暦1653年に関公を奉納する詔を発布し、その号は「忠義神武関聖大帝」である。
注意!順治皇帝の時期、1655年、オランダ東インド会社は北京に特使を派遣し順治皇帝に謁見した。特使団は中国の東南沿海で半年にわたって滞在・視察し、また北へ数千キロを行く途中に政府や庶民が関公を敬けんで恭しく祭る様子を見ていた。もしかしたら紫禁城で順治皇帝と話した時に、皇帝は中華武聖の関公に言及したのかもしれない。特使団の執事を務めたジョアン・ニウホフ(Johan Nieuhoff)は、旅行中における各地の見聞を詳しく記録し、大量のスケッチを描いき、1665年にオランダの首都アムステルダムで旅行記『オランダ東インド会社派からタタール国へ派遣し中国皇帝に謁見する外交使節団』を出版し、100枚以上のイラストが収録されている。同じくアムステルダムに居るジョアン・ブラウ(Joan Blaeu)は、世界地図を描いた際に、ジョアン・ニウホフ(Johan Nieuhoff)との夜を徹して長話し、東方中国の風土と人情を知り、中華武聖関公を知ったのかもしれない。
アトラス・マイヨールは、なぜヨーロッパのオランダ人が描いたのか。朱正明氏によると、1581年、オランダは国家の独立を勝ち取り、その造船業は当時の世界トップに躍進したと言う。17世紀前後、オランダとイギリスの間に四回も戦争があったが、「アトラス・マイヨール」が出版された1665年は、第二回の戦争が始まった最初の年だった。貿易の需要、航海の需要、争覇の需要、戦争の需要があるから、アトラス・マイヨールは自然と国家の需要になった。
朱正明氏は「350年前、中華武聖関公は海のシルクロードの使者として、中華民族の道徳的偶像となり、西洋文化に尊崇されている。そして今、中華関公文化は、一帯一路の架橋や絆になっている。世界中に行き渡る華夏の子孫は、国内外で何万という数の関公殿堂を建て、台湾だけで700軒以上もあり、関帝文化サークルは雨後の筍のように発展している。毎年、関帝の生誕や秋の時期になると、海峡両岸ないし世界各地で威勢が大いにある朝聖大典や文化フォーラムが相次いで開催され、、国内外の華人の感情を結び、経済文化の振興を促進し、社会の調和と純潔を促進している。」と喜んで話した。(文章/朱墨 写真/崗嘎)
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